Falluja, April 2004 - the book
現代企画室刊『ファルージャ 2004年4月』を引き継ぐ形で、
同書共訳者2名がファルージャおよびイラクについてのニュースなどを
英語から日本語にして紹介しています。
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Raed Jarrarさんインタビュー:「僕たちの問題を解決するために,外から誰かに来てもらう必要はないんです。」
私が日本語化をしているRaed Jarrarさんのウェブログ,10月17日の記事(原文 | 日本語化)に言及されていた,AFSC (American Friends Service Committee) のRaedさんインタビュー記事です。

A Young Iraqi Informs and Empowers
by Wendy Univer
http://www.afsc.org/iraq/personal_stories/entries/101304.htm

Raed Jarrarのウェブログをざっと見てみるだけで,現在のイラクの社会の複雑さがよくわかる。Raedはウェブログへのリンク部分で,(父親の)Azzamを「資本主義者である父」,(母親の)Faizaを「シーア派である母」,(弟の)Khalidを「スンニ派である弟」と紹介している。そして,「世俗主義の僕」へのメールのリンクもある。【訳注:正確には,Azzamさんのサイトはウェブログではなく,ビジネス(水道設備)の紹介。】

彼は26歳,建築を学ぶ大学院生で,家族のみんなにウェブに書き始めさせたのは彼だ。世界に向けて彼らの「さまざまな信念」を示すために。

「イラク人はともに生きていけるんです。宗教上,政治上の違いや問題があっても。」ヨルダンのアンマンで携帯電話に出たRaedは,こう断言する。「僕は,イラクで起きていることのありとあらゆる色を示したい。僕たちの問題を解決するために,外から誰かに来てもらう必要はないんです。」

Raedは,イラク人の母親とパレスチナ人の父親との間に,バグダードで生まれ,イラク,サウジアラビア,ヨルダンなどいくつかの国で暮らしてきた。2003年,戦争が不可避であると思われたときに,彼はアンマンの学校からバグダードに戻った。敵意の只中で,家族と一緒にいるためだった。

情報についての熱意
2003年4月にバグダードが陥落した後,Raedは2,3日にわたり,市の中心部,サダムの銅像が引き倒されたフィルドス・スクエア近辺で,状況をさぐった。「あのときがちょうど,僕たちの(=イラクの)人々に何が起きたのか,民間人の犠牲はどのようなものかを尋ねることを始めるためにはいい時期でした」とRaedは説明する。「何が起きているのかを自分自身で確認する必要があったんです。というのは,電話は通じてないし,ニュースなんか見てたって何もわからなかったから。」

イラクの人々に対して戦争が与えた影響について,Raedは熱心に,客観的で「科学的」な情報を求めていた。そして彼はMarla Ruzikaに会った。Marlaは経験のある国際支援活動家で,バグダードで爆弾が原因の戦争の犠牲者のことを調べていた。

Raedはその調査を拡大し,戦争の影響を受けたすべての県(州)を調査した。彼はこの長大な計画を実行するために,ボランティアたちを組織し始めた。CIVIC Worldwideの後援で実現したイラク民間人犠牲者調査は,彼らの奮闘の賜物だ。Marla Ruzikaが資金集めやメディア向け広報を担当し,Raedが175人以上のボランティアたちをまとめていたのだ。

最初に,彼らは病院や診療所を訪問し,医療関係者からデータを集め,調査を手伝ってくれる医療専門家たちをスカウトした。それから,ボランティアたちがバグダードや南部の多くの都市を日々戸別に訪問した。調査員たちは大都市もその周辺の小さな町や村もくまなく調査し,人的犠牲と財産の破壊について,氏名や個人の情報をまとめあげた。

死者・負傷者についてのCIVICの調査は,AFSCの展覧会,Eyes Wide Openの基礎となっている。この展覧会は現在全米を回っている。

CIVICは数字に氏名と顔をつけた
CIVICのボランティアたちは,一軒一軒訪ね歩くことで,犠牲者数はイラク保健省の公式報告よりも10〜50パーセント高いということに気付いたのだとRaedは言う。数えられていなかった犠牲者の多くは,病院に行っていなかった人々だ。また,公式な戦闘の最後のほうでは混乱が高まり,医療スタッフもてんてこまいになっていて,正確な記録をつけることができていなかった。

Raedは数だけでは満足しなかった。彼は,報告されるすべての件について,氏名と年齢,職業,家族関係が必要だと主張した。「要は,すべての犠牲についてそれぞれ,個人の情報を結びつけることです。そうすれば,誰の目にも,この惨事がイラクの人々にとっていかに大きなものであるかが,わかるでしょう。」

Raedはまた,民間人として数えられるのはどういう人かについて,厳密なガイドラインを守った。家にいただけ,あるいは車の中にいただけで戦闘に参加していなかったのに巻きこまれた人々について,真実を世界に示すためである。

現在のように状況が悪化する中で犠牲者調査を続けることについて訊かれ,Raedは,現在は不可能でしょうね,と言う。「これ以上はないというカオスになってしまっていますから。病院は機能していないし,移動もできません。」

憂鬱なことに,Raedは既に,将来において,墓地の埋葬記録を使うことで,これらの新たな犠牲者たちを数える戦略を検討している。

Emaar:内部からのイラクの再建
Raedの奮闘は死者と破壊の数を出すだけで終わりはしなかった。それどころか,彼は修士論文の基調となる論のひとつで,戦後イラクを実際の例として取り上げている。紛争後の国の再建は,その土地の人々によって為される小規模な草の根の努力により,ミクロのレベルで行なわれるのが最もよい,と彼は考えている。

このような次第で,RaedはEmaarというNGOを立ち上げた(Emaarとはアラビア語で「再建」の意味である)。Emaarは,小規模で中央からの指示のないイラク市民の集団が,日々の仕事の枠を超えてボランティアのプロジェクトを行なうよう,動かしている。

「みんなには自分の暮らす地域でボランティアとして仕事をしてもらっています」とRaedは説明する。「破壊された構造物を再建し,イラク人の自身を再建する。自分の住んでいる通りのゴミを誰かが片付けに来るのを待つのではなく,自分で片付ける――まずは自分の住んでる町から,自分たちで始めよう,ということです。」

再建にかかる費用
Raedは,イラクの人々は3度の戦争を行きぬいてきた,教育の高い人々なのだと言う。イラク人は創意工夫に富み,地元にある材料や適切な技術を用いていかに仕事をするかを知っているのだ,と。

彼はEmaarが再建した学校の例を挙げる。その学校は,イラク南部,湿原アラブ人,すなわちマダン(Madan)の人々の故郷にあり,ありあわせの資材で再建された。湿原アラブ人はサダム政権下でひどく迫害され,戦後イラクでも苦しみ続けている。Emaarはナシリヤー県で新しい学校を1軒,備品類も含めて総額わずか2500ドルで建設した。米国の大企業が10万ドルでペンキを塗ったり「お化粧」したりしているバグダードの学校と比較してみよう。

「あれだけのお金があれば,僕たちはイラク南部の湿原地帯に学校を40軒くらいまで建設できます」とRaedは主張する。「それと,学校を建てる作業をする人々が,自分たちは社会の一部なのだ,何年も続いた抑圧と,外からの介入によってぼろぼろになってしまった社会の一部なのだと感じるでしょう。」

Emaarのプロジェクトのほとんどが,学校建設などといったものよりもずっと規模は小さい。100ドルとか500ドルといった金額をやりくりしつつ,Emaarのボランティアたちは橋をやフェンス,水道管などを修復した。Emaarは3ヶ月ほど米国の資金を受け取っていたが,そのお金が尽きて活動は停止された。今のように攻撃が頻発していると,Emaarの活動は不可能である。

怒りを理解に変えること
戦争のときに,なぜウェブログを?

この問いに対し,Raedは「それが僕のすべきことだからです」と答える。「僕には,自分の声を他の人々に,アメリカやヨーロッパの人たちに届かせるために必要な文化体験も言語の能力もある。イラクで実際にどんなことが起きているのかを理解してもらうために。」

自身の意見を公表するために巨大なメディアに加わることは自分の原則に反する,とRaedは続ける。だから,ウェブログが,彼の意見を表現するために,費用のかからない「適切な技術」となったのだ,と。

Raedはヘイトメールもたくさん受け取っているが,そのいくつかは時々冗談めかしてウェブログに掲載される。Raedは彼を「バアス党員」だと非難するメールを何十通も受け取っているが,そのバアス党はRaedとその家族を何年にも渡って苦しめてきたのだから,彼がバアス党員呼ばわりされるとは皮肉なことである。

「ヘイトメールを生むのは,無知です」とRaedは言う。「単に無知だからああいうメールを書く。なので僕は,個人に向けられたものだとは受け取らないようにしているし,極めて穏便なかたちで,『僕はあなたと同じようなひとりの人間だ』とか,『それは事実とは違う』とかいったことを知らせるために,返事を書いている。事実を挙げるようにしているし,申し訳なかったという返事や,こういう考えもあるんじゃないかといった判じを受け取ると,とても嬉しいですね。僕のウェブログはそういうことなんです。」

しかし,Raedはウェブログの限界についてはちゃんとわかっている。「憎悪を打ち崩すことは簡単ではないです。僕たち双方の政府は,この憎悪を主要な武器として,政府の大義を支えるために利用しているんですから。」

異なった種類の政治の実践
Raedのウェブログの題名は,「Raed in the Middle: Lost between the east and the west(宙ぶらりんのライード:東と西の狭間で道に迷って)」という。彼の人生は,まさにボーダーレス(boundary-crossing)研究である。半分はイラク人,半分はパレスチナ人で,ネットで知り合ったイラン人女性と婚約している男性で,宗教面では世俗主義を貫き通し,LOL(「爆笑」の意味)やウィンクしている表情をあらわす顔文字などがちりばめられたウェブログを英語で書いている。

しかし,Raed Jarrarのキーワードは,「統合」であるように見える。

「政治はインフラや建築,人類学や社会学と切り離されているものではない,というのが僕の考えです。CIVICやEmaarで仕事をしてきましたが,あれらは政治的な組織ではないのだけれど,深い部分で政治化されています。イラク再建の基礎を,内部からの統一体として示している。僕はプラクティカルなポリシーが一番よいと思っているし,イデオロギーについて議論をする代わりに,特定の政治的理念を強調する前提で物事を行なうことがいいと思っているんです。」

憎悪に反対,理解を促進しようというRaedの哲学は,2004年3月29日のウェブログの記事に最もよく要約されていると言えよう。この記事で彼は,国民を「お互いに憎ま」せようとして政府のしていることを,次のように書いている。

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あなたの敵は、あらかじめ決められたようにカテゴライズできる。例えばシオニスト、バース党、共産主義者、帝国主義者、テロリスト、イスラム主義者……敵はこれらの小さな箱に閉じ込めなければならない。箱は防音工事済み。だから彼の有害なイデオロギーを聞くことは決してない。

本当の問題は、僕たちの政府がやり方を変えるのかどうかではない。
本当の問題は、僕たち自身のことだ。僕たちが彼らの作り話を買うのかどうか? 僕たちはこの憎悪の海に引きずりこまれるのか? 僕たちの文化の間にまた新たな壁を築くのか?

違ったように考えることはあなたの権利だし、僕の権利でもある。
平穏無事に生きることは、僕たちの権利だ。

Raed in the middleの日本語化ログより
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記事を執筆したWendy Univerは,AFSCの Iraq Aftermath: The Human Face of War コーナーの編集長。


投稿者:いけだ

コメント(0)| Track back(0) | 2004-10-20 08:11:14 | イラク全般
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